私は全然サッカーに興味がないため、詳しくはないのですが、サッカーを観戦した後のサポーターが、スタジアムのゴミを拾って帰るという素晴らしい行動が話題になっているようです。
ただ、その影で、誰のためにも何のためにもならない「いらん事」を言う人もいると聞いて、とても残念な気持ちになっています。
  
我々はサッカーのサポーターではありませんが、キャンパーという別のジャンルでゴミ拾いなどの清掃活動をしています。
我々も同じく、ゴミ拾いをしていると「偽善」とか、「そんな事しても意味がない」とか、色々言われることがあります。
残念ながらどこの世界にも、このゴミ拾いという活動が「気持ち」の問題である事に気がつけない人が一定数いるのです。
  
「ゴミ拾いをすると清掃員の仕事がなくなる」
「ゴミ拾いは金をもらっている清掃員にやらせておけばいい」
  
時々そんな事を言う人も見かけます。その意見は一見合理的なように思われますが、そこにいるのは機械ではなく感情を持った人間なので、実際はとても浅い考えであり、誤った認識なのです。
  
ゴミ拾いをすると清掃員の仕事がなくなってしまうのか…。
やればすぐに分かるのですが、清掃というのは「ゴミ拾いをするだけ」のような簡単なものではありません。ゴミ拾い一本のボランティア活動だけですぐに全体が完璧に綺麗になる保証はないので、清掃員は絶対に必要となることは言うまでもありません。
もし、ボランティア活動だけで世の中にゴミのポイ捨てが全てなくなり、清掃員という職種がこの世から消えるとしたら、そんな愛に溢れた素晴らしい世の中では、清掃員をしていた人も失業どころか更に素敵な職に就いて活躍できますので大丈夫です。
  
みんなが力を合わせて、声を掛け合ってゴミ拾いをしている。その行動を見た人が感銘を受け、自分の事だけではなく、他人に感謝することの大切さを覚え、また自分もゴミ拾いをしてみようと思う。その連鎖が人と人との間にとても良い環境を作り出すものなのです。
  
「褒められたいのか」
「偽善者」
  
そんな事を言う人もいます。
悲しいのは批判されたからではなく、ゴミ拾いなどの行動をこのような形で批判する種類の人は、普段から自分の中で一番価値のあるものが「他人からの評価」になってしまっているのが見えてしまっているからです。
自分自身が常日頃から「他人からの評価」ばかりを意識しているからこそ、その視野の狭さから他人も評価を求めて生きているのだと勘違いしてしまうのです。
確かに人からの評価は人に自信を与え、人を輝かせるものなので、良い面は存分にありますが、”他人から評価がもらえない行動は無意味なのか”と言うと、全然そんなことはありません。
他人からの評価が世の中の全てであるかのように評価に溺れてしまっている人は、「他人からの評価に関わらない意味のある行動」も世の中に沢山存在することを理解する力を持つ必要があります。

「気持ち」のある行動に善も偽善もありませんが、あえて善か偽善かで言うと、ゴミを拾うというのは拾う人が自分の負担で動いて、清掃員の人のお手伝いになり、きれいになり、みんなが気持ちよくその場を使えるようになる。という確実に良い結果があるので、これは明らかな「善」です。
一方で「清掃員にやらせておけ」「清掃員の仕事がなくなるからやめろ」と批判する人は、口だけで、自分では何もしていませんし、何の負担もしていません。その声が拡散されると、最終的にはゴミのポイ捨てを肯定してしまう恐れもありますし、清掃員の人の仕事を無駄に増やすことにもなり、その場所も気持ちよく使えなくなる恐れもあります。言った人が「何か良いことを言ったような錯覚」に陥り、自己満足するだけで、誰も幸せにならないという結果になります。これこそがまさしく「偽善」というものの姿なのです。

SNSなど、インターネット上では「顔が見えない」「いつもより大胆な発言ができる」など、良い部分もありますが、その反面、誰のためにもならず、何の役にも立たない、言っても意味のない、心無い発言をする人も出てきてしまいます。
そのようなことを言ってしまう人がこれ以上増えてしまわないように、人の「気持ち」を大切にし、尊重できる世の中になってくれることを祈っています。